トヨタ生産方式発祥工場である「本社工場」が無くなってしまった!|元トヨ...

トヨタ生産方式発祥工場である「本社工場」が無くなってしまった!|元トヨタマンの目

先日、本社工場時代の先輩でその後もずっと本社工場に勤めていた方に電話をした。

 

先輩「あ、そうそう、今度俺工場変わったよ」
私「ええ? どうしてですか?」
先輩「だって本社工場なくなっちゃったもん」
私「ええーー? 本当ですかーー?」

 

本社工場はダイナ・トヨエースなどのエンジン・ミッション・足回り付きのシャシーの段階までを造っていた。

後工程はトヨタ車体や岐阜車体で、そこへシャシーをわざわざ送ってボデーや内装品を組付けて完成車にしていた。

このような輸送費もかさむ、不効率な工程にしていたのも、トヨタ生産方式発祥工場である本社工場は全トヨタ工場の模範であり、歴史的な工程も多々残っていたためだと思う。

 

私がこの本社工場で働いていた頃、あるビジネス雑誌にトヨタ本社工場が特集で載った。

 

発行日
1991年5月号

雑誌名
『工場管理』

出版社
日刊工業新聞社

特別定価
1100円

 

主タイトル
特集「これがトヨタの本社工場だ」

副タイトル
トヨタ生産方式の原点を探る

項目
①長い歴史の積重ねによって完成
②時代が変わっても本質的な考えは変わらない(インタビュー 専務取締役 大西利美氏)
③トヨタ生産方式の基本的考え方
④歴史的遺産が残る本社工場
⑤トヨタ生産方式・本社工場の事例
⑥トヨタ自動車はこう考える(生産調査部長 銀屋 洋氏)

 

私はうれしくて数冊買って知り合いに配ったりした。

この本には相当突っ込んだ内容が書かれていたが、まだまだピンポンかんばん、円盤かんばんなど実に面白いものは他にもいっぱいあった。

工場のしくみの概要は紙でザーッとは理解できるが、それを動かしている人間達の思考パターン、使命感に裏打ちされたきびきびした動きなどは紙では決して表現できない。

 

私の頭の中には、その光景が活き活きと残っている。やはりそこに身を置いた者の強みだ。

20年近く前ですら、すでに本社工場は歴史的遺産の残る伝説の工場だった。

早い話が、オンボロ工場だったのだ。よくもトヨタはそのオンボロ工場を20年近くも生きながらえさせたと言うべきか。

 

私が本社工場と出合ったのは、トヨタへ入社して7年目のことだ。

それまでは本社機能にいた。人事部を3年やってから、経理部を3年やったそのあとだ。

私の入社時の配属先の希望は経理部だった。大学は商学部のくせに簿記すらまっとうにやってなかったが、やはり経理マンで身を立てたかった。

 

それがどう間違ったか人事部の、それもなんと人事課へ配属されてしまった。

人事部には人事課、労務課、採用課、住宅課、厚生課、調査課があったが、その最もキーになるのがやはり人事課だ。

こんな性格で人事ができるわけがない。

 

配属された最初の異動希望の調査から、経理部への異動希望を申請した。こんなことをしたら人事部からにらまれるが「そんなの関係ねえ」だ。

人事部も立派なもので、3年後に私の希望通り経理部資金課へ異動させてくれた。

この3年間で簿記は完全にマスターしていたため、輸入機械の経理処理などスイスイできて課長にもほめられた。

それですぐに3年が経ち、このまま経理部内で身を立てようと張り切っていた矢先に、こんどは自分の意に反して会社の方から一方的に、本社工場原価グループへの異動を命ぜられた。

 

これにはさすがの私も激しく落ち込んだ。人生の明確な目標ができたのに、会社にそれを無理やり捻じ曲げられたのだ。

やはり本社機能の方が断然かっこいい。工場なんか左遷だ。

それも完成車も造っていない中途半端なオンボロ工場だ。

 

そして失意のうちに、本社工場での原価マンの生活が始まった。

「工場の原価も経理の一部にはかわりないから、まっ、いいか」と諦めざるを得なかった。

しかし工場のすごさに気づくのにそれ程時間はいらなかった。生産活動を的確に数値で表現する「生産性評価体制」が完璧なまでに整っているではないか。

 

トヨタ生産方式は生産の増減に応じて、それとパラレルに要員を増減しなければならない。

その場合、適正な人員が配置できているかどうかを常に全員が把握できる指標がどうしても必要になる。

投入要員の絶対数が分かっても、それが適正なのかどうかはどうしても指標化しなければ把握できない。

 

世間にはほとんど知られていないが、大野耐一氏はトヨタ生産方式の初期から、すでにこの労務費の指標化を検討且つ実施されていたのだ。

トヨタ生産方式とは「目に見える現場のラインづくりが50%、その投入工数評価体制が50%である」と定義しても間違いではないと、私は確信している。

それほどこの生産性評価体制は重要なのだ。

 

私は実務を通して、この労務費の変動指標管理(生産能率)と全変動費の予算管理を苦しみながら修得することができた。

しかしながらこの体系は、トヨタへ入社し工場の原価グループへ実際に配属され、1つ1つ実務をやりながらでなければ、絶対に修得できないほど、複雑で精巧なものだ。

ここ以外では絶対に修得できないのだ。私は工場に左遷されて、本当によかったと思った。

 

ここで3年修行したあと、今度は生産管理室へ異動した。ついにトヨタ生産方式の本丸へ攻め込むのだ。

生産管理実務も極めて複雑で、難しいものだった。後から後からどんどん仕事をこなさなければならない。

これはたまらん、ということで、「今日やらなくてもいい仕事は明日に回す」というのを自分のモットーにした。

 

このようにある程度いい加減に考えないと、頭がおかしくなりそうだった。

この生産管理の実務にしても、原価管理と同じで、トヨタで実際に実務を経験しながら修得しないと絶対に身につかないと確信した。

トヨタの中の、技術員上がりの現場の課長経験者でも、原価管理や生産管理の細部については分からないと思う。ましてや外部の識者に、真のトヨタ生産方式の本は書けないと思う。

 

さて、私がトヨタに入社した時、大野耐一氏は専務取締役だった。

私が本社工場に異動になった頃は副社長ではなかったかと思う。

本社工場の職制クラスはほとんどすべてが大野耐一氏から直接薫陶を受けた人達だった。

 

そんな頃、ある工長(係長)の退職の宴に出していただいた。

彼は挨拶で次のように語られた。

「トヨタの現場は本当に厳しかった。しかしその厳しさの中に大いなる働く喜びを見出すことができた。自宅は本社工場のそばでこれから毎日散歩するので、ご恩返しにゴミでも拾って歩きます」

 

まさに本社工場はこのような人ばかりだった。

それまで私が身を置いてきた社会にはいない人種がそこにはいた。特に職制はみんなまじめで、明るくて、いい人ばかりだった。

最初は、私が原価マンとして評価する立場で彼らに接触したので、ちやほやしてくれたということもあるかも知れないが……

 

「人間はきちっとした体制・器に入れられれば、きちっとした行動をとるようになる」ということを強く感じたし、今でもそう確信している。

したがって世の経営者は、本当に真剣になってトヨタ生産方式を研究し、取り込むことに全力を尽くして欲しい。トヨタのような鉄壁な体制を構築してしまえば、管理は非常に楽になる。

この意味でトヨタの役員は本当に楽な商売だと思う。トヨタ役員は銃後の憂いなく、より高度で高品質は業務に邁進できるわけだ。これでは他メーカーとの差がどんどんついてしまう。

 

ところで、私が本社工場へ異動した時の本社工場長が大西匡(ただし)氏だった。

トヨタの現場で鍛えられたトヨタマン達をさらに束ねなければならないのだから、並大抵の人ではできない。

大西氏は本社工場鍛造部に技術員として入られた。どんな難しい故障も、大西技術員が機械の中にもぐれば、たちどころに直して真っ黒になって出てくるという伝説があった。

 

そのままその部署で昇進されて重役にまで登り詰められた。したがって本社工場のことは、工場の隅のゴミ箱の位置までご存知だった。

大西氏が工務部長時代には、原価マンが原価会議資料の決裁に行くと、数値がおかしいと必ず指摘を受けて、再度調べると必ずそのご指摘通りだったそうだ。

大西氏が住宅事業の方に異動になった時は、長年大西氏の下で鍛造部の技術員として働いてきた係長が、「俺は大西さんの下で働きたい」と畑違いの住宅事業へ異動希望を出して行ってしまった。これには本当に驚かされた。

 

この大西氏は本社工場のすべての工長(係長クラス)に「省少人化の改善事例」の工場長への発表を義務付けていた。

まず現場を改善して工数を低減させる(省人化)

次に生産ラインの工夫などにより、低減工数をうまく集約させて1人工にして現実に作業員を1人抜く(少人化)

 

工長はこの準備に大変だった。

実際に改善活動をすることは言うまでもないが、その発表方法もしっかり検討しなければならない。

大西工場長は本社工場たたき上げのためウソは絶対に通らない。発表前は各製造部の部長も入れて入念なリハーサルが行なわれていた。

 

そして本番の発表会では、大西工場長からの厳しく的確な指摘に、それほど年齢も変わらない工長連中がたじたじさせられていた。

若い駆け出しの私には、大西氏は神様のように見えた。

このように発表会は準備などが非常に大変だが、このような一連の活動を通じて上位者から下位者に対して、きちっとノウハウを伝達する手段として非常に重視していたように思う。

 

しかし残念なことに、大西氏が本社工場から異動してしまった段階で、この発表会はなくなってしまった。

その後、私は田原工場へ異動したが、本社工場とはいろいろな部分でやはり差があった。本社工場はやはりトヨタの「メインプラント」だったのだ。

それが鍛造工場、大型プレス工場、部品工場という単発部品を製作をするところを残して無くなってしまった。

 

工程も電子かんばん化などどんどん進化しているが、これらの進化過程を克明に記録しておき、「トヨタ生産方式進化過程博物館」のようなものを、社内でいいから作っておく必要があると思う。

 

元トヨタマンの目
トヨタ生産コンサルティング株式会社


豊田生産コンサルティング株式会社代表取締役社長◎略歴 昭和30年(1955) 愛知県豊橋市生まれ 昭和53年(1978) 早稲田大学商学部卒業トヨタ自動車工業株式会社(現トヨタ自動車)入社 平成16年(2004) トヨタの基幹職チャレンジ・キャリヤ制度(他社への転出支援制度)によりトヨタを退職(退職時資格は課長級) オーエスジー株式会社オーエスジープロダクションシステム推進本部副本部長就任 消耗性工具(ドリル・タップ・エンドミル)専門メーカーで自動車関連以外の業種の現場改善活動に従事。 平成19年(2007) 豊田生産コンサルティング株式会社設立◎トヨタでの職歴(26年)人事部人事課海外関係人事 3年/財務部経理課輸出入経理、国内債権債務管理 3年/本社工場工務部原価グループ鍛造工場能率・製造予算管理、工場棚卸総括 3年/本社工場工務部生産管理室車体・塗装・組立工場生産管理 4年/米州事業部原価企画グループ北米事業体原価管理、北米生産車原価企画 3年/田原工場工務部原価グループ成形工場能率・製造予算管理、トヨタ生産方式部課長自主研 2年/田原工場工務部生産管理室エンジン・鋳物工場生産管理、トヨタ生産方式部課長自主研 8年◎本社部門(人事・財務・原価企画)9年、工場部門(本社工場・田原工場)17年と本社機能、工場機能のそれぞれを幅広く経験。特に工場では生産管理と原価管理という「石垣」づくりとトヨタ生産方式自主研メンバーとして「天守閣」づくりの両方に長年従事。