トヨタの赤字を考えてみた|元トヨタマンの目
※この記事は2009年7月に執筆されたものです。
トヨタを人間に例えると、トヨタが30歳ごろ、私は入社した。
そしてトヨタが60歳になったころ、私はトヨタを退社した。
私がトヨタに入社する4年ほど前に、オイルショックが世界を襲った。
そのオイルショックではほとんどの企業が大赤字になったのに、トヨタは黒字を維持した。
そのことでトヨタが、いやトヨタ生産方式が、世間の注目を浴びることになった。
そのトヨタ生産方式の全体像は次の通りだ。
<基礎部分>
①1個流し
②ライン化
③シングル段取り化
④ポカヨケ
⑤自働化
<核心部分>
①月次単位での平準化仕掛け
②かんばんの活用
<最終局面>
①少人化
②月次単位での要員の異動
端的に言えば、生産の増減で要員を増減できるようにすべての工程をつくっていたのだ。
そのため高度経済成長の場合の右肩上がりの需要の時には、増産だから増員し続けたが、オイルショックで減産になったら、それに応じて要員を減らしただけだ。
他の会社は減産になっても人を減らせなかっただけだ。
別に当時のトヨタ社内は、大野耐一氏の指示通りやっていたら、オイルショックで急に世間が騒ぎ出しただけといった感じだった。
ところで、オイルショックのころはまだトヨタの工場はすべて豊田市周辺に集中していて、田原工場もなかったし、ましてや海外工場もまったくなかった(ブラジルトヨタでランクルはつくっていたが微々たるもの)。
またそのころの本社社屋も非常に質素だった。
豊田本社の本館は今もあるが、3階建ての学校のような程度のものだった。
私はその横にある事務館1号館に配属されたが、天井が異様に低かった。
その理由は、当初4階建てのビルを立てる予定が、急遽5階建てに変更されたからだと聞かされた。
そして名古屋支社は、名古屋駅前の豊田ビルの一角だったし、東京支社は日比谷の三井銀行かなんかの上にあった。
当時でもトヨタは日本で一番の製造会社だったが、非常にみすぼらしい建物で、トヨタに入社できた喜びも半減した記憶がある。
なにせ当時のトヨタのイメージは「ドケチ会社」だった。
(私はトヨタ自動車工業へ入社し、これらは自工の話。別にトヨタ自動車販売があり、名古屋と東京に小さなビルを持っていた)
トヨタは60歳になり、ついに赤字に転落した。
トヨタの30歳当時と比較してみる。
<社屋>
豊田市と名古屋駅前に2つも巨大なビルを建てた。
<工場>
アメリカを中心に世界中に無数の工場が建設された。
日本の工場間では、繁閑により要員の異動を行なうが、海外工場の場合はそれができない。
したがって、今回の金融不況に際して稼働してない海外工場は労務費を払い続けなければならない。
海外工場ばかりか、日本の工場も稼働ストップしたのだから、遊ばせている作業者にも労務費を払っている。
<TPS>
電子かんばん化に代表されるように、私の在籍した30年間も劇的に進化し、在庫も激減した。
このように見てみると、TPSをどんなに進化させたにしても、「工場の分散化」「社屋の派手さに代表される浪費体質」により、赤字化してしまったのではないかなあと考える。
しかし打開策は簡単だ。
30歳の頃のトヨタに戻ればいいだけだ。
「工場の分散化」は時代の趨勢としても、「浪費体質」は相当なものだと思う。
この点はスズキ自動車を見習うべきかもしれない。
私は若くして本社工場で勤務したが、工場長、部長、課長、工長などの役職者はものすごい実力を持っているなあと感じた。
なにせ彼らは、創業工場であり、トヨタ生産方式の発祥工場である本社工場で、大野耐一氏に直接薫陶を受けた連中だからすごかった。
特にO工場長は、すべての工長に「省少人化の改善発表」を行なわせ、直接指導されていた。
その指導内容を聞いていた若き青木青年は、「O工場長は神様ではないか」とぐらい感心させられた。
われわれ生管マンをいつもどやしつけている工長連中の改善事例発表の問題点を1つ1つ指摘して、その荒くれどもに冷や汗をかかせているのだ。
そのくらい当時の役員の質は高かった。
しかし時代が進み、会社の規模が大きくなるにつれてやはり指導層の質が格段に落ちてきた。
確かに電子かんばん化によるITの導入で、工場内の仕掛在庫は劇的に減少したが、その分現場が、かんばん枚数の増減を見て自分で判断するという、いわゆる「自律神経」の部分が大きく減少したように思う。
こういろいろ考えてみると、やはり60歳のトヨタは年齢相応に病んできたことは間違いないような気がする。