剣道とものの見方

剣道とものの見方

私が剣道を始めたきっかけは、健康のためであった。現在6段にチャレンジ中、苦戦しているが、本年中には何とかしたいと考える。

さて、剣道だが、続けていくうちに多くのことを学んだ。剣道には「良き師を得ずば学ぶにしかず!」という厳しい考え方がある。

学ぶ上でも、仕事を教える上でも自己を見直す重要な言と考える。以下に参考となりそうな内容をまとめてみることにする。多少とも参考になれば幸いである。

 

1.剣道のとらえかた

2001年宮本武蔵のビデオが放映されている。相変わらずの人気である。

しかし、皆様は宮本武蔵による書『五輪の書』(剣道の極意書)が『ザ・ブック・オブ・ファイブ・リングス』という名称でウオール街でビジネスマンの方々の間で読まれ、ベストセラーとなっていることをご存知であろうか?(『剣道時代』95年5月号P.13〜14に紹介)。

この書には、経営に取り入れる考え方が多々あるからである。

 

詳細は省くが、剣道により得たことは、仕事に多くの点を学び取ることができる。

日本剣道連盟が定めた剣道の理念は「剣道は剣の理法の修練による人間形成の道である」。

理論と実践を通し、体力だけでなく精神的にも、また、物の見方や品格をつける面で役に立てる主旨を伝えている。

 

ここで、先人が教える剣道について、教えていただだいた一部を紹介することにする。

剣道には若い時に行うスポーツ剣道、スピードで竹刀を相手に当てる押し切り方式の剣道、そして、刀法の考え方にもとづく剣道がある。

選手権等で打ち合う内容は前者である。その後に学ぶのが古来の刀の原理を利用した品格の高い、切れる引切り剣道とされている。

 

見た目では素人には区別が付きにくい内容だが、大きく異なる。このため、スポーツ剣道で日本選手権を取った方々でも、止めることなく修業を続けるわけであり、多くの師が修行されてきた。

このようなことを先生方より教えていただくうちに、運動神経が鈍く、練習量が少ない私の場合も及ばずながら(プロ級の方々とは異なる方法で)、古来から伝えられた剣道を少しでも学ぼうと思ったわけである。

幸いに、私を指導していただいている先生方は日本でも一流の方々であり、そこから多くを学ばせていただいている。その内容は仕事の上でも多く、ここに、今まで教えていただいた内容の中から、その内容の一端をご紹介させていただくことにする。

2.間違った指導のこわさ

剣道の特徴は下は6歳から上は80数歳までが一堂に会して稽古を行う点である。

私は自分の稽古の担当をしながら、子供さんの指導の任を担当させていただいているが、ここでも多くを学ぶことが多い。

「子供さん達への指導は厳しい。一方的に下を教えるという気持ちではダメである」というご指導を師から教えらたことがあった。

 

「弟子は師の師なり」という言があるそうで、子供さんは師である。教えるというおごりは捨て、教えながら学ぶ、この考えが大切である。教えは大切な見方を与えていただける。

すなわち、子供さんが打ってくる時、ただ打たすだけではなく、太刀筋を読み、間合いをつかみ、姿勢を直し、と自分の修行をする。

この修行で、目が剣をとらえ、間合いを知り、また、外す技を覚え、打たせながら、時には、剣を受けて打ち、指導途中で大人を対象としてはとてもできない技の練習をする。

 

このように、子供さんを指導しながら、同時に、自分の稽古をしなければ、単なる打ち込み台であり、今度は、大人同士で試合で打たれる癖が、負けにつながる事になる。師の教えである。

さらに、子供に教える、やらせる、できていく内容を見て、教え方が正しいか否かをフィードバックさせる行動は、子供は教えに忠実だったり、癖や性格が出やすいから、教え方の工夫になる。

この内容は企業の方々を現場改善で指導するコンサルテーションの仕事の状況に類似していて興味深い。

 

いつもそうであるが、子供さんの指導の後、我々指導者達も自分の稽古に入る。

試合方式の地稽古である。この時、まだ、子供さんは着替えをしながら、我々の様子を見ている。

しかし、この稽古は指導者に厳しい、当然のことながら口でうまいこと言って教えていても、いつも打たれる先生のいうことは子供さんはまじめに聞かなくなる事態が発生する。

 

「論理が良くても実践していないではないか!」「あの程度のことを教えてもらっても、負けるのではな! 他の先生からもっと良い方法を習うべきだ!」と考え、対応してくるからである。

子は教師の鏡である。だから、教える側も、おごらず、自分を正し、修業を重ね、習った技、子供さんに教えた技がすぐ出る状況をつくり(練習し)、示してゆくことが、常に必要なわけである。

「試合とは、教え、修業した技が素直に出せるか否かを試し合うという内容を短縮した文字になっている」と剣道の師は教えておられる。

 

このことはコンサルタントをしていても私の仕事の仕方にそのまま当てはまる。

おごりや、論と実践の効果が離れたコンサルタントは指導者として失格であり、顧客もつかないという厳しい内容を示すように思われる。

私自身、心して勉強、努力を重ねなけらばならない内容そのものである、と心している。

 

指導の誤りを指導者が技(改善手法)を正しく理解していないで教えている悪い例を見る時が時々ある。

多分、その先生は、理論や教場では美しい話を学び、その受け売りをされた結果、そうなっているのだと思うが、実践経験が全く感じられず、しかも、実務をやる人なら気づくべきことを気づかず教えている例がある。

例えば、TPM対策で5Sを金華極上のように教え、教えだけならまだしも、1年も、2年もそれだけを教える例がある。筆者達は“掃除5S”と呼んでいる。

 

なぜ、早く、ゴミ発生源対策に移行する教育をしないのであろうか?

この例などは、自分で剣道でたとえるなら、「基本が大切!」という言を繰り返すだけであり、基本は大切だが、その活用を教えない内容に似ている。

試合にあっても基本技ができるように教えなければ、実務での5S適用、展開はできず、経営効果は出ないのではないだろうか?

 

もうひとつ、JMAの指導例ではないが、最近の例を示すことにしたい。

例は川崎にある業界3位の、あるトラック完成車メーカである。ある品質管理の優秀な賞を取ろうと努力されていたそうである。

結論はこの努力で、93年3月期には130億円もの赤字となってしまった。反省点が新聞紙上にも克明に記載されていた。

 

書類づくりは良かったが、経営面の目的と手段が整理された活動でなかったため、技術的に企業体質改善が進まなかったから赤字になった、とのことであった(筆者たちは、技術手段の「ぎ」の文字を失い「きじゅつ=記述」に終始したため、という言い方をする事態がこの企業で発生した内容であった)。

当然その後、この企業では、品質改善を指導した先生を首にし、マネージャー陣は株主だけでなく、従業員からもボイコットされ、交代させられた。

新しいマネジャーは過去の反省、マネジメントの責任を重視し、目標、目的を経営分析を基に提示し、企業の職制を越えた活動を実践しながら、改善を進めた結果を歯止めとして標準として残す、本来の標準化システムに改編したそうである。

 

その結果、その企業は黒字に転換した。この状況は95年6月29日の記事に詳しく記載されている。

また、その状況を知りたい方はその記事をご覧いただきたいと考える。

この例を見て知ることは、企業の体質改善にあたっては、誤った手法を教えるべきではないし、また、習う方もだまされるべきではない、という点である。この話は、先の子供さん達の指導そのものを示す内容である。

 

このような例は、丁度、剣道の技の使い方、指導方法を間違ったため、回り道をしたという内容に相当するのではないだろうか?

昔の切り合いなら、弱い剣客は命が無い状況となるが、企業活動は多少幅があるので対策をたてて快復に向かうことができたので、傷は浅かったということになる。

このような特殊な例は別として、よく、企業内で品質管理の管理者が、部下指導に対して犯す、指導の誤りの例を示すことにしたい。

 

言及するまでもなく、現在、企業における品質管理は経営課題の重要課題のひとつになっている。

しかし、時々この面で手法の誤った活用は多い。「死亡診断書」づくりである。

本来、現在発生している不良対策は3現主義(現場へ出て、現物・現象をみて〔観る=ビデオや写真で現実を観る。看る=計測機器で定量的に事実を看る。監る=チェックリストを用いて異常を探る〕)で行うべきである。

 

3現主義とその活用は、TZD研究会、または、筆者達が作成したビデオやCDーROMで正確な内容の把握をお願いすることとして、異なる方式であるが、その死亡診断書活用の事例は多い。

そのような会議では、管理者の方々が、会議と想定原因を基に運営し、「問題は複合原因である」と決めている。このような企業では、会議の結果、多くの対策をとらせる現場に指示する。

小集団活動においても同じ指導が行われてきた例が多い。自主活動の名のもと、現実を見直さず(ブレーンストーミングの手段として有名〔事実分析の手段の前準備手法〕)を関係者に繰り返させ、内容のアピール性、派手さが際だつ内容に時間と金をかける例である。

 

間違った品質改善・管理アプローチである。しかし、このような指導に陥っている例は多い。

本来、統計解析は事前検討に使うべきものであり、統計資料をコンピュータでつくったり、綺麗なグラフをつくることに終始することを仕事と考えてはいけない。

問題を出してから問題解決に入るより、問題を未然に出さない仕組みづくりの統計は活用すべきである。

 

なぜ、この種の取り組みを発表会では軽視するのであろうか? 事後処理で成果をあげ、賞を誇らしげに貰う例をみるとこの点が疑問に見えてならない。

しかし、多くの発表会ではこの例をよく見る。この問題はJMA小集団マネジメント研究会で検討中の内容である。この内容も、本ホームページで参考にしていただきたい内容である。

まして、現場で問題が起きているのに、現場、現物で事実に基づく不良対策をせず、死亡診断書に基づく会議をやっていては、問題解決はますます遅くなる。人件費が高く、ライフサイクルが短い日本で行うべき内容ではない!

 

問題の発生時点で不良対策を図れば、統計資料などつくる必要は全く無い! のに、その行動を取らず、資料づくり=品質管理となる行動様式は、正に死亡診断書づくりであり、日本から、否、ISO9001:2000年が発動された今、国際的にも、絶対に止めていただきたい内容である、と考える。

ちなみに、「死亡診断書禁止!」は、20年も前の指導内容であり、現場改善の師、新郷重夫先生の有名な言である。

この内容も「技の活用を間違えると本当の品質改善になりませんよ!」というご注意にあたる。

 

この種の事例は剣道においてもある。江戸時代、徳川・豊臣の争い、関ヶ原が終了してから100年の後、剣道家は指導の職を失った。

飯を食うため、派手な手法を示す多くの流派を創出した。実務性はないが、世に受ける手法を示し、話題をまいた流派であった。

しかし、試合して負けると消えた例である。実務より派手さ、話題性を追求すると同じ内容になることを示す例である。

3.切り口という見方について

では、話を転じて、剣道用語として有名な“切り口”という内容から、物事のとらえ方を眺めてみることとする。

(1)切り口について、ある企業に勤めるS先生の言(居合で巻きワラを試し切りした時の談)

「剣道の言葉が企業に活用されている言葉は多いんだよ。例えば真剣に行え、鍔ぜり合い、セッパをつめる、しのぎを削る、手の内の冴え、などなど沢山ある。

これらの言葉は全て剣道から出ていて、企業では日常的に活用されているだろ、このように企業活動と剣道は切っても切れない関係にあるんだ。

巻きワラを切るときは、手の内で切る事が大切だ、先人のいう“手の内”とは、切る瞬間に小指と薬指をしめて、腕の裏筋を使って切る方法を指す。

 

剣道で大切なことは常に真剣を使っているという考え方が大切だ。竹刀は丸いから当たれば1本に誤解するが、刃筋が通っていなければ切れない。

裏筋を効かした引き切りでないと巻きワラは切れない。

この状態がうまくできない状況で巻きワラを切りに行くと、バン! と刀がワラに当たって、巻きワラが倒れるだけさ、さっきAさんが失敗したのはそのためだ。

 

今度は君の番なので注意しておきたい。竹刀剣道の場合は押し切りだが、押し切りならまだ良い。

竹刀の横で人を叩くのは平打ちといって刀なら切れない打ちだ、小手を打つとき横から打って、手をあげるひとがいるが、いつも注意するように刀なら絶対に切れない。刀の平らな面が小手に当たっただけだからさ。

刀で切る時に立つ位置はここら当たりだ。刀は物打ちが一番切れる。物打ちとは刀の切っ先から1/3当たりのところをいう。刀を持って立ってごらん」

 

「はい、こんなに近いのですか? 人を切るとしたら顔が目の前にある状態ですね」

「そうだ、だから刀で人を切るということは大変なことなんだ、会社で首切りという言葉があるが、赤字になって人員整理をする時の言葉だが、人は切らないが同じ状態をいった内容さ、大変なことなんだ。

だから、剣道を学人に対して、刀は“断つ”の変化した内容であるという言葉を教え、剣道の目的を明らかにしているわけだ。

 

悪霊や殺人者が襲ってきたとき、仕方がないから刀で切るものである、という意味だ。

人の命を大切にしない人は剣道をやる資格がない。単なる殺人鬼だ、剣道の修業を通して、まず、自分の悪い心を切ることが大切だ。先人はこのため修業せよ!と教えている。

この考えから、刀が神殿に飾られる理由となっているわけだ。悪い物を断つ、このためご神殿で刀が守り神とされているわけだ!」

 

「そうですか、刀にはそのような意味があったのですか?」

「そうだ。では次に、刀のソリと引き切りの関係について話そう」

「お願い致します」

 

「日本刀は神殿で見られる通り、最初日本に来たときは直刀だった。天国という人が最初に現在のようなソリのある刀をつくった。

それから、剣道の日本文化が始まった。西洋の戦いに見るように、直刀の場合、攻撃は剣、守りは楯が必要になる。

両手で剣を扱えないから力の訓練が必要になる。ところが、刀のソリを利用すれば相手が攻撃してきても、ソリの円運動を利用して放射線状に相手の剣を跳ね返すことができるわけだ、守りをソリで対処し、同時に攻撃をする。

 

剣道では“受ける太刀は打つ太刀”というが、受けると同時に攻撃に移れることが日本刀の特徴となっている。

要は、楯が要らない。両手で剣を扱えるので攻撃力が高い。受けと攻撃が同時にできるわけで、これが、日本刀の文化さ!」

「そうですか、ソリは切れ味を高めるためのものと考えていましたが、それ以外にもあるわけですか?」

 

「その通り、ソリで確かに押し、引きすれば切り込みが高まる、丁度ノコを引くと木に歯が食い込み、切れる原理もあるが、それ以外にソリは大きな意味をもっている」

「初めて知りました」

「さて、巻きワラを切ることになるが、いいかね? 自分を切らないように、刀は切るものではない。切れるものだ。

 

力まかせに振るのでなく、刀に逆らわず、刃筋の通り振ることが大切だ。目の前にある巻きワラは意識せず、巻きワラを通過する直線を決め、45度程度、刀が巻きワラに振れる当たりで手を締める。

先程の裏筋を使う。そうすれば刀は止まる。力まかせに下まで振る必要はない。第一足を切る危険性がある。

切る瞬間に物打ちに力が集中すれば、刀が巻きワラを切ってくれる。君が切ると解るが、刃筋に逆らわずに切ると、手にあまり抵抗がない状況を経験をするだろう。

 

しかし、今いったことを守らない場合、手に抵抗がきて、巻きワラは台ごと倒れたり、途中までで刀が止まり、刀を曲げてしまうこともある。

ましてや、力まかせに刀を振れば、床に刀を当てたり、悪い場合は勢いあまって足を切る。

事実、自分を切った人を私は何度も見ている。最も、私が教えた生徒にはいないがね!」

 

「先生、刀を持っていて怖くなりました」

「そう、それを真剣みを帯びるというのだ、刀は切れる。だから、真剣に事に当たれ、理合正しく、正しい心でことに当たれという意味だ、昔、桜田門外の変があったろ」

「はい」

 

「あの時、井伊直助を切るために剣を振るった人々の耳や、手の切れ端が沢山落ちていたそうだ。人を切るために自分も切ったということだ。

さあ、話しはこれ位にして、一つ見本を見せよう。A君も見たまえ、もう一度切る前に」

「はい」

 

先生はスパと、音も立てず切られた。

「中村君、切る前に今の要領で振ってごらん、それで良ければ、切れ! というから」

「はい」

 

背筋にヒヤリとする感じを持ち、刀を振りかぶりふると、「もっと、腰を入れて、びくびくせずにやれ!」

2〜3回振るだけで体は緊張でカチカチとなりました。

「柔らかく振れ、木刀でやってみろ!」と木刀に持ち替えるとスムーズなわけです。

 

「それを刀でもやれ!」とのお声に、刀で数回練習しましたが、「いいだろう、いいか、線をつくり刃筋のとおりにやれよ!」
との指導で一振り。

空気を切るように何もなく刀がピタリ、と止まると巻きワラが切れていた。

「お見事!」

 

この声に我に帰った心地だった。A君がやっても同じ状況だった。要は刃筋が通れば、刀は軽く振っても切れる経験をしたわけであった。

何度やっても失敗なく同じ状況だった。

「どれ、切り口を見てみよう」と言って、先生は切り口をご覧になり、その後、「水の事を話しても口は濡れぬ。火のことをよく説明しても口は熱くない。本当の水、現物の火に触れなければ実体はわからないものである」などの故事の他、多くの専門的なご指導をいただいた。

 

この詳細は剣道の専門領域になるので割愛させていただく。

(2)切り口と、その応用

切り口に関する中から、経営に活用できる物の見方をまとめてみることにする。

 

イ、切り口と物の見方

切り口とは色々な角度に切り、物の見方をする意味があると、私は考えてた。確かに、その意味はあるかもしれない。

しかし、切ってから切り口を見るわけであるから、結果を見て、問題解決にどのようなアプローチをしたかを知る。というのが正しい。

この内容から、刀法のアプローチと結果を評価し、解決策である切る方向、刀を当てた位置、刃先の通り道を知り、自分が今度切る時の教訓にする、という見方ができる。

 

要は、企業が解決した良い成果を見て、そのアプローチの内容(方針、手法、解析や投入力)をつかみ、今度、同種の問題があった時、利用していくという方式である。

一般に、企業は極秘に関するやり方(ノウハウ)を公開することは少ないワケであるから、結果を見て、取り組みの内容を見破るだけの経験と実力がここに要求される。

 

ロ、切る前の準備が良い切り口をつくる、という見方

製造現場などで改善に取り組む場合、少ない投入工数で最大効率の効果を挙げる必要がある。

その為には正しい理論の習得と、準備、が実践の前に必要である。単に結果だけを見て、問題解決の条件整備に目を向けないと思わぬ苦労をする。

 

ハ、良き師を得ること、という見方

もし私が、ただ、剣を持ち、巻きワラ切りをやったら? どうなっていたであろうか?

多分、刀を曲げ、足を切って病院に入院していたであろう。しかし、良き師を得て早く、失敗なく巻きワラが切れた。

巻きワラの程度は人の胴体を切ったことに相当するというから脅威である。

 

そして、PーDーCである。師の教えを確認しながら、繰り返し練習する。

実践したら、切り口という結果を見て、師の切り口と比較し、差を教わり、レベルアップする。

私の師は片手で難なく巻きワラを切られた。手練の技である。私は人間は正しい理論に基づき、習練を積むと信じられないようなことができる! という事実を目の当たりにした気がした。

 

企業も同じである。同じ企業で、人も設備も変えていないが、信じられない生産性の向上を達成する例がある。

私の関与する企業でもこの事例が起こる。人が見方、考え方を変えるのは、正しい理論を先訓に学び、稽古し、自分自信の可能性を開発して、神髄を極めた時に、この現象が起きるように思う。

剣道では稽古という言葉をよく使う。稽古の意味は古(いにしえ)を思う(故人の神業を論理的に解析し、習得するまで努力すること)と、自己がかつて何らかの関連で成功した技を含めて、再度、思い出し、練習し、ものにすることの2つの意味がある、と師より教えられてきた。

 

良い切り口をつくる基本は、正しい理論に基づき、高い目標達成を図るまで努力を続ける内容と考える。

昔、武蔵が柳生流開祖の石舟斉つばきを切った切り口を見て、手練の技に驚嘆したという。プロなら仕事の結果を見て技の程度が判るという例である。

この内容からも切り口という内容は含蓄のある内容が含まれているということができよう。

4.日計足らずして歳計あまりあり

剣道の師、S先生よりご指導を受けた考えも、企業活動に欠かせない内容なので紹介することにする。

「剣道は“修破離”という言葉を大切にする。この内容をもう一度見直して稽古して欲しい。

これは、先人の良い技、理合を基とした基本を錬磨して身につけなさい、という内容だ。

 

画竜点晴を欠く、という言葉があるが、これは絵に描いた竜に眼が入る一歩手前で仕上げができていないという意味であり、我流で物事を考え、努力した結果、もう一つの点を習得しないで満足してしまっていて、成果が悪いことをいうことだ。

丁度、絵に描いた龍に眼が入っていないので行く先が知れずに行動しているという意味にも解釈できよう。

“修”の字は、ほぼ同じ音であるため、“守”という文字を使うこともある。先輩の良き内容を守り、完全に身につける努力をせよ! という内容と同じである。

 

“破”は基本をマスターした人が行う内容である。基本を基とした応用を研究する努力であり、良き師か否かは、ある程度基本を身につけてきたら見抜け、いつまでも基本は大切にするが、“応用を考えろ。また、自分独自の道を考えろ”という意味であり、この努力を通して、学ぶことは、基本と先人の奥深い考えと、原理である、とされている。

いろいろやったが、基本に戻るとはこの言を表した内容である。

最後の“離”は理の意味も含んでる。人には個性があるから、その内容を知り、限界を追求すべきことを示す内容である。

 

人の体は個々に違う、自分に合った独自の方法を身につけ一流になるお手本になり、『自分の人生と取り組みを一体化させよ!』という努力であり、これを、“極める”とか“悟る”というそうである。

ここには一人稽古が重要なテーマとなる。そして、その内容は正しい、新しい原理を自分の個性に合わせて造り、論理体系を確立せよ! という内容を示す。

個人の状況に適した最高の方法と理合を形づくる段階と考えなさい! という教えだそうである。凡人の領域から超越した内容への取り組みとなる。

 

話は異なるが、剣道には“他流に学べ”の言がある。分野の異なるものから技術導入を図る考え方である。

筆者も、剣道を学ぶ中で、この言を大切にしている。この種の取り組みとして、ひとつの例を紹介したい。

この前、私は、野球監督Nさんの話をお聞きした。良いバッターは練習だけでなく、頭を使うそうだ。

 

『野球というものは打つという行動により、頭を使って、玉筋を読み、ピッチャーのクセを読むことに時間を使う方が多い。このことに気が付かないでバットを振っていても、いくら練習しても、成果は少ない。

ベンチで情報を集め、考え、試すためにバッターボックスに立ち、共同で敵のピッチャーに当たらねば、勝ちを拾うチャンスは少ない。

要は選手に練習前に頭を使って、物を見る目と目的をはっきりさせることが大切である』

 

剣道の師もこのように言っておられた。剣道はどうだろか? 同じだろ! 稽古の前に正しい先人の工夫、基本だね! これをたたき込んでおく。

我が流はだめだ、そして、自分の目的とする練習の項目や、人からいただいたご注意をメモに取っておくことをやりなさい。

すぐにはできない、それは当たり前だ、しかし毎日、足りない、足りないと努力した結果は1年経つと意外に進んでいるものである。

 

これを“日計足らずして歳計あまりあり”と私は名付けている。要は、『当道場では漫然と剣道の汗をかきにくるな!』ということを言いたい」

この、内容も仕事に活用できる含蓄のある内容が多いと考える。

仕事を上長の指示や、過去の自分の経過から、何の気なしでやるのでなく、一流になる目的で見直し、ムダを解析し、練習メニューを作り努力する内容は、現場の日々改善活動に類似しているからである。

 

もし、1年で30%の生産性向上を図る対策があったとする。このような数値達成を図る企業はエクセレント企業というが、少ない投資で、もし、1日に0.1%の生産性向上を毎日、たゆみなく続ける努力を図ればどうなるであろうか?

ひと月25日稼働とし、12カ月でたゆみなく努力すると、何と、数値は1年で30%ものとなる。

うまず、たゆまずの努力で毎日0.1%の改善をはかることはこのように大きい数字になるわけである。

 

マラソン、野球、柔道が日夜練習する理由がここにある。企業努力も同じである。

剣道の師の言を使うなら日計は足りない、足りない、と日々改善に当たった結果が、革新という値である30%に積み上げていくことができる、という内容となるわけである。

マジックのような計算は日本の小集団活動の成果が示す通りである。日本式ものづくりの基本事項では剣道の努力内容と同じであり、両者とも日本文化を柱とした大切な改善方式を示すわけである。

 

これも、今後も企業で活用すべき大切な切り口の一つであるように思う。

この点に関する体験談を紹介することとする。

 

かつて、私と一緒に現場で努力した職長にKさんという方がおられた。

毎日、喧嘩のように私と現場で討論(喧嘩のようにして改善への大切さを伝えつつ日夜、共に)努力した。彼は、私がいじめか何かをやっているのではないか? と思っていたそうである。

その工程は工場の重要工程だったので、つい、私も強いアプローチとなったわけであった。しかし、6カ月の後、職長の活動連絡会の席で、「日々努力した内容をまとめると、このようになっています。改善とは良く改めると聞かされてはいましたが、私はかつて現場で残業の毎日でした。

 

今は、早く帰宅できるので、息子と川で夕飯の子魚を釣って、夕食を一緒に食べています。

考えてみると、今まで、ムダをさせ、部下まで同じ境遇に引き込んでいたわけでした。現場が感情的になるのは当たり前でした。

それが、この頃は、現場の雰囲気も良くなり、改善とは会社のためでなく自分と部下のためになることを、データーを纏めてみて始めて判りました。

 

今まで考えてもみないことでしたが『小さな努力、大きな改善になる!』、このことは口がすっぱくなる程聞かされてきたが、これがそれです。皆さんダンダン(ありがとう)」。

この内容は当時、現場で共に苦労する仲間達から拍手喝采と涙を受けた内容である。

この話しは、前日、夜遅くの電話で彼が「会議で話したい」と語った内容そのままである。私は目頭を再度熱くし、これが日本のものづくりだ、と当時は深く悟った内容である。

5.天狗になるな!

私の剣道の師、M先生の言である。

「剣道は段があがるとその時から注意を受けにくくなる。加えて、天狗になるとますます注意がいただけなくなる。

それからが自分との戦いという修行だ、人に注意を言ってもらえるように仕向けることを心掛けると同時に、自分の修業内容がチェックできる方式を作りなさい」

 

この内容はJMAで行われた全国IE大会で企業の方々、約2000名を集めた講演会で将棋と碁の、故、大山名人が話された内容と一致していた。お話しの要点は次のようであった。

「将棋の修業は内弟子と、企業に勤め教育費を支払い修業する人とは大きな差が生じる。

内弟子といっても、別に師より碁や将棋の手ほどきを受けるわけではなく、家事を手伝ったり、本を読んだりと自分で碁・将棋が好きだから独学するだけである。ものの考え方や師の生活から自分でいろいろな内容を勉強するだけだ。

 

一般に、サラリーマンから名人は生まれた試しがないのは、いくら勉強しても碁・将棋で飯を喰うわけでないから、修業内容に差が出る。

内弟子もサラリーマンも教えられたことから先、自分で工夫する時に覚悟が異なる点が差となる。要は、内弟子で修業する者は、最初は不味い碁・将棋を打つと、師より、時々ご注意をいただくが、ある程度になると、勢い、やる気、ものの考え方程度をご注意いただく程度である。

後は、自分と同じ環境で勝ち、負けした先輩の例を碁盤などに置いて、勝つ工夫を練る」という、お話が印象的であった。

 

自分の工夫と、ちょっとしたご注意が腕をあげる要点となる。天狗になればこのきっかけすら得られないわけである。

剣道の師M先生によると、「おごりは改善を断つ」と仰っておられた。

確かに上手の先生が、もし、間違った方法で剣道をしていても「あの先生は知っていて、何かの工夫であのようなことをなさっているのだから、注意はすべきでない。黙っていようか?」となるわけである。

 

M先生の言を借り、剣道の天狗になるな! の考えを整理してみることにする。

「剣道はね、素人にはわかり難いと言われるが、そんなことはない。子供に引率してくるママさんだって、いつも高師の話を横で聞いていると、善し悪しが判るようになるから怖い。

素人だって馬鹿にしてはいけない。ましてや、君達が教えている子供さんはママさん以上だ、いつも昇段試験を審査されている、と思って修業しなさい。

 

子供を教えているという考えを持つこと事態が天狗の始まりだ、ただ打たせるだけなら打ち込み台を置いておけば良い。

受け八得という言葉が剣道の教典にある。自分が師に教えていただいている時は十(全て)が勉強だが、子供さんと剣道する時も八点をチェックし、ふだんはできない内容を子供さんを利用して練習しなさい。

例えば、打ってくる剣の方向(太刀筋)、距離(間合)、打つ瞬間に時々かわす動作をして体をさばく練習、子供さんは攻めると怖さから必ず打ってくるが、これにより攻めを練習する工夫、特に、休ませないで息を上げさせて体力、気力をつけさせるにはこの方法が最も良い。相互に良い。

 

さらに、打ってくる竹刀を受ける時、手を締めたり緩めたりと手の内を訓練したり、時々は、「真っ直ぐ打て!」「遅い、早く打て!」と言って相手を打ったり、返し技の訓練をやる……。

このように、受け八得をしない者はおごりである。自分の稽古をしていないで、人が教えられるものではない。

剣道は何のためにやるのか? 考えながらやって欲しい。

 

剣道は「礼に始まり礼に終わる」とされている。

一つは道場に無事に来られた感謝、稽古でケガや教えを受けられる神殿への礼、師への礼、そして、相互の礼がある。

したがって、腕の上下に関係なく、上の者からは良き点を学び、下の者とは普段練習できないことを試す師として礼を払い、更に、下手に悪い技があれば教えながら、その時には同時に、自分の理合を確かめながら、教え、やって見せて、やらせて直す、このような行動が必要だ。

 

要は「あなたは私を充分に鍛えて下さい。同時に、私もあなたを鍛えます。よろしく」の精神が大切だ。

剣道は刀を使う技術として発達したが、品格高く、日本文化や先人の工夫を学びつつ自己育成を図る人間形成の道具となっている。

現代は人を切り合う目的でやっている人はいないわけだから、軍鶏の喧嘩のような殴り合いでなく、理合と実践を通してこの内容を学ぶべきと考える。

 

古人は「高上な理合をいうは後の事、ただ唯一心にて業に熟せよ」と言っておられる。練習が必要だ。

剣道の練習を稽古というが、稽古とは「古(いにしえ)を学ぶ」という意味がある。古の意味は先人、師、自分がかつて成功した良い点や技を思い出し、更に良いイメージをつくりつつ錬磨する目標を立てて練習する、という意味合いを持つ。

このような意味合いから、剣道は単なるスポーツとは区分され、道を極めるという精神で学ぶ方が多いわけだ、最も、良き師に学ばねばムダ、3年かかっても良き師を探し、その後で練習しても、その方が旨くなる、とされている所以があることにも注意を払っていただきたい。

 

良き師につき、剣道を学ぶ利得を挙げると、特記すると次のような点が挙げられよう。

まず、健康と集中心を身につける。そして、剣道は人の力を頼らず自分で相手とあたる。

この時、正しい打ちで勝つ必要上、常に機会を見破る努力がいる。このためには、洞察力を鋭敏にし、攻め、機先を制して技を出す訓練が必要である。

 

打つ機会は3つの許さぬところを打つことが大切だ。相手の出鼻(正に打たんとする瞬間)、打ち尽きたところ、居ついたところ、この3つを常に打てるように訓練すべきだ。

常に、気を殺し、剣を殺し、技を殺す、という3殺法により中心を取り、攻めて打つことをやって欲しい。

後の先という言葉がある。相手の出方を見て応じて勝つ方式をいうが、剣道ではこのままの言葉を使うと打たれる。先後の先という考え方が正しい。

 

要は攻め勝っているとき、相手がこちらのペースで打ってきたら打つのであって、相手のペースに応じて、それから考え行動するという意味合いではない。

剣道は相手がある。打たれてはいけないという気持ちがあるので、どうしても自分は打たれずに、相手だけを打とうとする。

これが品のない剣道をつくってしまう。その理由は、四戒と呼ばれる内容が人の心の中に生まれてくるからだ。恐れ、迷い、驚き、疑いの四っを四戒というが、大きく、正しく、勝って打つ攻めをつくる気持ちでこの四戒を無くすことがここに必要になるわけだ。

 

このためには毅然とした構えをつくる必要が、攻める前に必要になる。構えは竹刀を構える事だけではない。

竹刀を構えるのは身構えだが、心構えと、気構えの3つが備わって始めて良い構えとなる。昔から「我は大納言なり」と言って構えよ、といわれている。

さらに、気が満ちた構えが大切だ。お相撲の行司が勝負の前にハッケヨーイというね。あれは気を発する用意、即ちだな、発気の用意をせよ! と言っているわけで、単なる掛け声ではない。

 

剣道の場合も同じだ、気を丹田にため、一気に技を出すことが大切だ。無心で打つ。これを“気剣体の一致”という。

剣道においては相手を全体的に見ることが大切だ「遠山の目付け」というが、頭から足の先までの全体をとらえて、相手の動きの隙を打つ。相手の右足が動くと感じたらこちらも行動する。

この時、相手の剣線が下がったり、横へ行ったら面を打つか、突く。上がったら小手、もっと上がったら胴を打つ癖を体に覚えさせておくことが大切である。目で見えてからや、考えて打つのでは遅い。体に覚えさせておくことが大切だ。

6.王者の剣

「“王者の剣”とは」という言葉がある。今まで論じてきた剣道の内容が集約されたものとみていただくと幸いである。

  • 観察力:敵の心の動きを観る、いわゆる心眼で見抜く
  • 不動心:敵の動きに惑わされない、心が座った構え
  • 集中力:気力がみなぎり、精神エネルギーを集中させる力
  • 制圧力:敵を気で圧倒し、その心身の動きを制する力
  • 瞬発力:敵の変化に対応して瞬間で敵にためた力を発揮する
  • 智 力:戦いを有利に導くために駆け引きを行う知恵
  • 業の力:素直で大きく正しく打つ

この気持ちで剣道をするが、打つ時、先生に打たれるかもしれない。それは、自分の至らなさを教えていただいている、と考え、反省と工夫の題材にすることが大切である。

よく、下手の人を打ち、勝ち誇っている人がいるが、あれは天狗のなりはじめだ。企業もそうだね、お客様からいただくご注意や社内から出る意見を整理せずに自分の考えで天狗になっていると進歩がないし、やがて嫌われる。

人の言を聞き、かみ砕いてみて、良いご注意は生かす。この態度が必要だ。

 

よく、昇段試験で試験官の先生を批判したり、試験に行かないが自分は○○段だ、という人がいる。あれも天狗だ、“段は人をつくる”といわれるが一人よがりでなく、日本で最高権威の実務者に見ていただいて、悪いところを直す! この精神が大切だ、段は先生方が決める。

自分で決めるシステムにはなってない。受かった方と自分を謙虚に比べることが大切だ。

そして、段を取得したらそれに恥じない、おごりない剣道を確立する努力をして欲しい」

 

このお話の中にも企業で活かせる多くの内容がある。最後に述べられた“天狗現象”ひとつをとっても企業では役立つ内容である。

例として、企業診断に関する注意点を剣道と比較して紹介したい。

天狗現象が企業いじめの審査となっていて、賞や資格の審査時のトラブルになっている話を良く聞くからである。

 

私が担当しているTP賞では審査委員長の方針で「企業の批判やあら捜しをするために審査しているのではない! 企業のためになる審査内容、助言、良いところを伸ばす提案をして欲しい! 審査されて会社が良くなった! とか、賞を取得したからおしまい、ということにならないように将来の活動が次の診断内容をもとにする内容でないとダメである。

審査委員はこのような見方からすると、企業に審査されていると考えて事に当たるように!」という行動がとられる。

このため、日本でも有名な先生と共に審査の時には深夜まで、試験を審査委員長から受ける形で質問を受け、企業審査の内容と提案をつくることを行っている。

 

私はTP賞以外にISO9000、EARA(ISO14000の英国資格)の審査員補の資格を取得したが、審査や指導には、まだ未熟ではあるが、TP賞と同じ気持ちでことに当たっている。

TP賞の審査基準は審査委員にも厳しい内容であるが、これに匹敵する内容が剣道の審査委員にも課せられている。

その一端を紹介することにする。

 

剣道の審査は高段者の先生により行われる。4段以上の審査の先生は各県の剣道連盟の中から選定される。

合格率は大体10%前後であり、毎年、ほぼ同じ数字である。審判の先生は各剣道連盟(市、都は異なる)より選ばれ、全員で7名である。

審査後、審査判定表は集計される。審査員の先生が審査を受ける方と同じ剣道連盟に属していたとしても、番号制であり、識別は難しい。第一、受験性と審査の先生とは分離され、受験者の番号を伝えることは皆無の状況である。

 

審査員に厳しいのは先の審査判定評価表の評価結果である。受験者の審査だけではないからである。審査が極端であったり、他の方々と10%も異なれば各県の剣道連盟に注意がくる。

時には“不適任”の評価が、先の審査判定表を基に日本剣道連盟より来る。審査の実力を審査先生方に行っているわけである。

審査委員は講習会を受けていないとパスしない仕組みになっているそうである。

 

我が師、M先生のお話だが、「ノートを持って企業研修のつもりで大間違い! 研修場へ入ると、『ハイあなたと、あなた、審査する位だから自分で手本を示しなさい』と、例えば、試験科目の剣道型をやらされ、まわりの先生方が評価をし、演舞する方、される方の両者が試験される方式をとる。

それでできない人は、これも各県の剣道連盟に親展の手紙と共に不適当の通知が来るわけだ、どうだ、厳しいだろう! 中村君」

歳を取り、昔は実力者だが、今は剣道を見てときどき指導するだけ、昔の名前で出ています風の方は審査委員落選となる。だから、厳しく、正しい日本伝統の文化遺産が守られるわけである。

 

「第一、審査の内容自体が、これからの剣道の今後のあり方を決めるから重要なんだ!」とお聞きした。このお話は審査する側に重要な内容であると思う。

外部の専門機関による審査だけでなく、社内の審査も盛んだが、剣道の審査同様に、審査委員の発言の良否が企業や職場の将来、信頼までも左右する例があるからである。


昭和45年から平成2年まで、日立金属㈱にて、全社CIM構築、各工場レイアウト新設・改善プロジェクトリーダー、新製品開発パテントMAP手法開発に従事。うち3年は米国AAP St-Mary社に赴任する。平成2年、一般社団法人日本能率協会専任講師、TP賞審査委員を担当を歴任する。(有)QCD革新研究所を開設して活動(2016年有限会社はクローズ、業務はそのままQCD革新研究所へ移行)。 http://www.qcd.jp/