40歳定年制:視点を変えれば

40歳定年制:視点を変えれば

8月に65歳で最後の会社を定年退職した。

団塊の世代の多くの男性とは異なり、同じ会社に勤め続けたわけではない。40年余りの間に7、8か所の職場を経験した。

退職金を貰ったのは2回だけである。最初に貰ったお金は社員寮からの引っ越し代で消えた。最後の退職金は、あまりに額が少ないので何度も計算しなおし、勤続年数が少ないからだ、と気づくまでに数年かかってしまった(40年以上勤め続けた同年輩の男性と比較したのが大きな間違いだった)。

 

30代の前半に子供を2人産んで育てたが、産休も育休も取ったことがない。その頃は非正規雇用や自営業だったので、無認可の託児所に子供を預けてアルバイト的な仕事をするのが精いっぱいだった。しかし、その間にも、技術書の翻訳をしたり、技術士の資格を取ったり、技術力を高める努力は怠らなかった。

 

さて、半年近く前に、『日本成長戦略 40歳定年制』(柳川範之著 さくら舎)という新書本を読んだ。退職するときに会社の図書室に寄付してしまったので手元にはない。

正直な感想だが、大企業に勤める(定年まで雇用が保証されていると信じて入社した)方々にはショックな内容だが、そうでない大半の人たちにはすんなりと受け入れられたのではないかと思う。私自身は後者である。

進むべき道が見えている(と信じている)人にとっては、その道が行き止まりになるかもしれない、と言われればショックだが、道はないと思っている人にとっては、道というものは自分で作るものなので、行き止まりになってしまったら迂回路を作るだけのことである。

 

少し観点を変えてみる。自分が仕事をしてきた40年以上の期間の中で一番力を発揮できたのは何時だっただろう。私の例でいえば、30代である。子供2人を産んで育てた時期でもある。それでも、最も頭が働き、様々なことに興味を持ち、アグレッシブに行動できたのがこの時期である。

 

今では信じられないのだが、当時の私は、自分が無敵に思えたことすらあった。この時期は「怖いもの知らず」なのである。また、頭は柔軟で何でも受け入れられる。さらに、失うものはその後の時期よりもずっと少ない。

だからこそ、私は、30代こそが企業を動かしていくべきだと思う。新しいことに挑戦し、新しいものを取り入れ、新しいものを創造できる年代である。

では、40代はどうだっただろう。当時の私は、中途採用で久々に正規雇用となり、張り切っていた。それまでの蓄積したスキルと経験が大いに役立った。ただし、成長はそれほどしていない。学ぶよりも仕事に追われる日々、といったところか。

 

50代になってバックヤードの仕事に移されてからは、かなり失速したように思う。仕事と並行して工学博士の学位を取ったりもしたが、それで世の中に貢献するような仕事ができたわけではない。何かしなければ、との思いばかりで15年が過ぎたような気がする。全く情けない。

40歳は節目である。その時点でそれまでの蓄積は活かせるが、それだけに頼っていては65歳まで走れない。雇用問題とは別に、心構えとして「定年」のつもりになるのは決して間違いではないと思う。


1948年東京生まれ 石田厚子技術士事務所代表 東京電機大学情報環境学部特別専任教授 技術士(情報工学部門) 工学博士 ◎東京大学理学部数学科卒業後、日立製作所入社。コンパイラ作成のための治工具の開発からキャリアを始める。 5年後に日立を退職し、その後14年間に5回の転職を繰り返しながら、SEなどの経験を通じてITのスキルを身に着ける。その間、33歳で技術士(情報工学部門)取得  ◎1991年、ソフトウエア開発の生産性向上技術の必要性を訴えて日立製作所に経験者採用。生産技術の開発者、コンサルタントとして国内外にサービスを提供  ◎1999年 企画部門に異動し、ビジネス企画、経営品質、人材育成を担当。57歳で「高い顧客満足を得る商品開発への影響要因とその制御」論文で工学博士取得  ◎2007〜13年、日立コンサルティングでコンサルタント育成に従事。「技術者の市場価値を高める」ことを目的とした研修を社外に実施  ◎2013年 65歳で日立コンサルティングを定年退職し、石田厚子技術士事務所を開業。技術者の市場価値を高めるためのコンサルティングと研修を実施  ◎2014年 東京電機大学情報環境学部の特別専任教授に就任