3月21日はラオスでは「タケークの戦いの日」でした|ラオス縫製工場の日...

3月21日はラオスでは「タケークの戦いの日」でした|ラオス縫製工場の日常

※当コンテンツはCBC Laoの提供でお届けいたします。

 

3月21日はラオスでは「タケークの戦いの日」でした。この日は、ラオスの祝日になっていませんが、ラオス人にとってはとても大事な日です。

といいつつ、私も今まで知らなかったのですが、朝、ラオスのラジオを聞いてるいると、「タケークの戦い」のことを特集していました。

 

ラオスで働く者として、ラオスの文化や歴史を日本に伝えるのも、仕事の一つと考えているので、今日はこのタケークの戦いを紹介します。

ラオスは、フランスに植民地にさせられ、日本が第二次世界大戦で攻めてきて一応フランスから独立し、日本の敗戦後中国が来て、またフランスが攻めて来る(タケークの戦いのとき)という大国に振り回されてきた歴史を持っています。

観光パンフレットやガイドブックでは、「笑顔が素敵な国」「のんびりした国」などと紹介されるラオスですが、辛い歴史を乗り越えて今があります。

 

さてタケークの戦いというのは、1946年3月21日にフランス軍がラオスにラオスの再植民地のために、ラオスの中部にあるカムアン県タケーク(首都ヴィエンチャンから南に300キロくらい)に侵攻してきたことから、ラオス人(ラオ・イサラ)とベトナムからの義勇軍が、フランスと戦った日という日です。

1946年2月28日のフランス中国協定に基づいて、中国国民党はラオスから撤退することになりました(まだ中国本土では、共産党と国民党が内戦をしています)。

その後、中国がラオスが撤退した後に、フランスが、3月17日にでサワンナケート県(タケークの戦いが起こることになるカムアン県の下の県)を占拠し、北上をしてカムアン県に向かってきます。

 

このフランス軍とタケークで戦うことになり、ラオ・イサラ(自由ラオス)とベトナム人の義勇兵で、ラオス人民民主共和国の初代大統領となるスパヌウォンがラオス側の率いて戦いました。

このとき、スパヌウォンは、メコン川を渡る時に銃弾を受け重傷を負いました(この負傷したスパヌウォンを助けるために、ベトナムからの義勇兵が亡くなっています)。

 

このタケークの戦いは、結果としてみればラオス側は敗北し、1日で3000人のラオス人がなくなりました。その多くは女性や子どもだったそうです。

またフランス人に殺された人々は、殺されて井戸に捨てられたり、メコン川に流されたそうです。

子どもの中には、生きたまま井戸に落とされた人もいるということです。この3000人という人数は、ラオスの歴史上、1日あたりの戦死者数でみると、もっとも多い戦死者数という日になります。

 

3月21日のタケークの日は、フランス人の残虐性とその死者数の多さにより、ラオス人にとっては忘れることのできないとても悲しい日となっていて、この日に亡くなったラオス人とベトナム人を追悼する日となっています。

最近、テレビ等でも取り上げられることの増えてきたラオスですが、「癒やし国」「笑顔の国」というだけでなく、辛く苦難の歴史を持っていることを知れば、また違ったラオスが見えてくるのではないしょうか。

 

出典:海外ラオスにある小ロットを得意とする縫製工場


アペルザニュース編集部です。日本の製造業、ものづくり産業の活性化を目指し、日々がんばっています。