白黒とカラー|元トヨタマンの目

白黒とカラー|元トヨタマンの目

私は昭和30年生まれで、今年54歳になる。

 

小学校3年生の時、我が家に初めてテレビがきた。

学校から帰ると、茶の間のテレビがあった衝撃は、今でも鮮明に覚えている。

したがって、生まれてからそれまではテレビのない生活をしていたのだ。

カラーテレビが世間に登場しだしたのが小学校5、6年の頃だと思うが、その頃のカラーテレビの画像は非常に悪く、見れたものではなかった。

家庭にカラーテレビが入ってきたのは高校生の頃ではなかったかと思う。

写真についても、カラーになったのは高校生ぐらいからだと思う。

このようにわれわれの世代は、成長とともに徐々にいろいろなものがカラー化していった。

 

ところで昨日、久しぶりに息子達と会って話ができた。

彼らは二十歳を少し過ぎたぐらいだ。

そこで写真の話になった。

彼らが生まれたときは、すでにテレビもカメラもすでに非常に鮮明なカラーの時代だった。

そんな彼らがもの心ついた幼稚園の頃だろうか、私と女房の子供の頃のアルバムを見たら、なんと写真がすべて白黒だった。

「ああっ!!!父さんと母さんが小さい頃は、世の中全体に色がなかったのか!?」

「いつ頃から、今みたいに世の中に色がついたんだろう?」

というように本当に不思議に思ったそうだ。

サンタクロースの存在の実態が成長するとともの分かってくると同じように、この謎も小学校へ入学して、世の中の事情が少しずつ分かってくるに従って解けていったそうだ。

このことは、友達の間でも話題になったことがあったそうで、ほとんどすべての子供たちが思っていたようだ。

私はこのことを聞かされて非常に驚かされた。

 

ところで話は変わるが、私がトヨタへ入社したころ、すでにトヨタ生産方式の根幹部分は完成されていて、ある意味、カラーの時代であったということがいえる。

鮮やかなカラーの中に30年近くいて、カラーしか知らない私がトヨタを退社し、世の中のいろいろな企業とお付き合いしだした。

そうすると、まだまだ白黒のままの企業が非常に多いことに驚かされた。

そのような企業の方々は白黒しか見たことがないわけだ。

そのような方々も、トヨタを見学さえすれば、カラーの実態は見ることはできる。

そこでいろいろカラー化を検討してやってみるがことごとく失敗し、結局やめてしまうといった感じではないだろうか。

 

私は白黒からカラーへどのように変えてきたのか、その歴史を解き明かすことに全力を挙げてきた。

今後は、それをクライアントの企業で1つ1つ段階を追って実施していくだけだ。

もう2年近くもたち、なんとかどこも手ごたえが感じられてきた。


豊田生産コンサルティング株式会社代表取締役社長◎略歴 昭和30年(1955) 愛知県豊橋市生まれ 昭和53年(1978) 早稲田大学商学部卒業トヨタ自動車工業株式会社(現トヨタ自動車)入社 平成16年(2004) トヨタの基幹職チャレンジ・キャリヤ制度(他社への転出支援制度)によりトヨタを退職(退職時資格は課長級) オーエスジー株式会社オーエスジープロダクションシステム推進本部副本部長就任 消耗性工具(ドリル・タップ・エンドミル)専門メーカーで自動車関連以外の業種の現場改善活動に従事。 平成19年(2007) 豊田生産コンサルティング株式会社設立◎トヨタでの職歴(26年)人事部人事課海外関係人事 3年/財務部経理課輸出入経理、国内債権債務管理 3年/本社工場工務部原価グループ鍛造工場能率・製造予算管理、工場棚卸総括 3年/本社工場工務部生産管理室車体・塗装・組立工場生産管理 4年/米州事業部原価企画グループ北米事業体原価管理、北米生産車原価企画 3年/田原工場工務部原価グループ成形工場能率・製造予算管理、トヨタ生産方式部課長自主研 2年/田原工場工務部生産管理室エンジン・鋳物工場生産管理、トヨタ生産方式部課長自主研 8年◎本社部門(人事・財務・原価企画)9年、工場部門(本社工場・田原工場)17年と本社機能、工場機能のそれぞれを幅広く経験。特に工場では生産管理と原価管理という「石垣」づくりとトヨタ生産方式自主研メンバーとして「天守閣」づくりの両方に長年従事。