機械の歴史 機械と器械の違いは何か

機械の歴史 機械と器械の違いは何か

機械のはじまり 古代中国における機械

 漢語の「機械」は紀元前300年代に記された「荘子」外編天地11に、「・・有械於此、・・・有機械者、必有機事・・」(井戸の跳ねつるべの仕掛けを「械」として紹介し、「仕掛けカラクリを用いる者は必ずカラクリ事をするものだ」(金谷治訳)の記述がある。多分文献に出てくる機械の概念のもっとも古い例と思われる。その後紀元前200年代に記されたとする「韓非子」第15巻第37篇難二に、「舟車機械之利,用力少致功大」の記述があり、これを金谷は「舟や車、機械(仕掛け)を使えば大きな力を使わなくても利得は大きい」意味と訳している。さらにこの記述のすぐ後に「宮室器械、周於資用・・・・」とあり、これに対しては「住居や道具は生活を満たすだけにして・・・・」(金谷治訳)の意味であるとしている。つまり日本語では同じ「キカイ」であっても漢語では「機械」と「器械」は使い分けられていて、前者は仕掛けであり、後者は道具であった。

日本における機械のはじまり

 一方、日本では「機」の訓はハタであり、白川静の字通によれば和名抄に記された高機(タカハタ)から来ているとしている。つまりカラクリの意も含めた織機のことを指していた。したがって高機が日本に到来した5世紀以後、荘子や韓非子等の漢籍が広く読まれるようになっても「機械」の概念は織機に特定されたような捉え方をされ、韓非子が記された頃から変わってきた可能性がある。

 下って室町時代末1551年にフランシスコ・ザビエルが大内義隆に時計を献上したという記録があり自鳴鐘と名づけられた。これを江戸時代の百科辞典・和漢三才図会15巻藝財(1713年刊)では「中に機関を設け」たものとして紹介し、この「機関」をカラクリと送り仮名をつけている。仕掛けであることの認識はあったと思われるが、藝財の中に分類されている。このことからもわかるように機械という認識はなかった。例えば天明8年(1788)大槻玄沢が著した蘭学階梯でも自鳴鐘(トケイ)は顕微鏡(ムシメガネ)、望遠鏡(トオメガネ)とともに器械としている。つまりここでは機械ではなく道具として扱われている。

machine と  machinery

 このころヨーロッパの状況がオランダ語を通じて知られるようになると、対象とする言語もオランダ語から英語へと重点が移り、洋学を研究していた幕府の洋書調所が文久2年(1862)に刊行した堀達之助の英和対訳袖珍辞書は広く珍重された。ここではmachineを「器械」、machineryを「机器ノ仕組方」、engineを「器械方便竜吐水」などと翻訳されている。欧米での産業革命の広がりを目で見ていない当時の状況ではmachineを道具の概念で捉えたのもやむを得ないものがあった。
 
 そして黒船の来航と共に目を覚まされた幕府は欧米の文化を吸収すべく、幕府や雄藩の有能な人材を外国に派遣し、見聞録を残した。これらの人々は欧米での蒸気機関の存在に目を見張る思いをし、それを蒸気器械、その他の機械類も器械として記述している。その結果、漢語にあった本来の器械の概念からのズレが目立つようになる。つまり実物の機械があって、言葉としての機械がない状態であった。堀の辞書の影響が大きかった。

しかし見聞録の中にも柴田剛中の仏英行(1865)※1)では「機関」をengineやメカニズムの意味で使い、機械工場をマシーネなどと呼んで、machineの訳語に対する戸惑が見られる。そして現在の意味での機械が使われるきっかけを作ったのは明治5年(1872)田代義矩が著した図解機械事始ではないかと思われる。この書は機械工学の入門書であるが、その序文では上述の荘子の一節を引用し器械から機械への転換の意味を強調している。ここで初めて機械の概念が言葉と整合することができた。現代では力学的な関わりの有るものを機械、無いものを器械として使い分けられている。

※1 日本思想大系66 西洋見聞録、岩波書店(1981) p261-477

★当コンテンツは、矢田技術士事務所 矢田恒二 様よりご寄稿いただきました
出典:矢田技術士事務所


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