大野語録|元トヨタマンの目

大野語録|元トヨタマンの目

「工場管理」誌(日刊工業新聞社刊)、昭和54年5月号の「多様化時代の第一線監督者像」という題での対談の中で、トヨタ自動車工業相談役の大野耐一氏は、「工場管理」誌記者の

「これから、トヨタ生産方式そのものも多種少量生産へ応用でき、同じような効力を発揮していく、というメリットもあるわけですね」

という質問に、次のように答えている。

 

「トヨタ自動車も初めは生産量も少なかった。

そこへもってきて、いろんな物を作らなければなたない、ということから、少量生産をうまくやる方法を探し出さねばとてもアメリカに追いつけない。

そこでどんな生産方式をとるべきか、ということから新郷さんも言っている”段取替えのシングル化”を実践した。

結局、段取替えをうまくやれば少量だって高くつくことはないんだ、ということで、多種少量、あるいは中量、なかには大量もありますわな、そういういろいろなものを、いかに経済的に作るかについては、日本人が考えないと誰も考えてくれない。

そういうところから見直していくと、アメリカの生産性のいい機械は必ずしも日本で良いか、という疑問にぶつかる。

むしろ、だんだんやっていくと、どんどん逆になってくるんですね。

アメリカのように種類が非常に少なくて、数をたくさん作り、たくさん売るには適した機械だが、日本へ持ってくると、これはだめだ、ということが分かってくる。

だが、どうしてもアメリカの機械が良く見える。

そんなことから、結局高い機械を使うようになってしまいますね」

 

P.S.
日本は後発のため多種少量を強いられた→アメリカは大量生産の甘い汁を吸っていた

日本は人件費が思いっきり高いため、人から機械に置き換えることを強いられた→中国は人件費が安いため機械化要請が少なかった

結局、日本は極めて厳しい逆境の中にあったからこそ、災い転じて福となった。

あんなに巨大だったGMやクライスラーが倒産した。

天国の大野氏にしてみると「2009年までよくもったなあ」といった感じか、それとも「2009年なんて意外に早かったなあ」といった感じだろうか。

いずれにしても、今日のことは予想されていたと思う。


豊田生産コンサルティング株式会社代表取締役社長◎略歴 昭和30年(1955) 愛知県豊橋市生まれ 昭和53年(1978) 早稲田大学商学部卒業トヨタ自動車工業株式会社(現トヨタ自動車)入社 平成16年(2004) トヨタの基幹職チャレンジ・キャリヤ制度(他社への転出支援制度)によりトヨタを退職(退職時資格は課長級) オーエスジー株式会社オーエスジープロダクションシステム推進本部副本部長就任 消耗性工具(ドリル・タップ・エンドミル)専門メーカーで自動車関連以外の業種の現場改善活動に従事。 平成19年(2007) 豊田生産コンサルティング株式会社設立◎トヨタでの職歴(26年)人事部人事課海外関係人事 3年/財務部経理課輸出入経理、国内債権債務管理 3年/本社工場工務部原価グループ鍛造工場能率・製造予算管理、工場棚卸総括 3年/本社工場工務部生産管理室車体・塗装・組立工場生産管理 4年/米州事業部原価企画グループ北米事業体原価管理、北米生産車原価企画 3年/田原工場工務部原価グループ成形工場能率・製造予算管理、トヨタ生産方式部課長自主研 2年/田原工場工務部生産管理室エンジン・鋳物工場生産管理、トヨタ生産方式部課長自主研 8年◎本社部門(人事・財務・原価企画)9年、工場部門(本社工場・田原工場)17年と本社機能、工場機能のそれぞれを幅広く経験。特に工場では生産管理と原価管理という「石垣」づくりとトヨタ生産方式自主研メンバーとして「天守閣」づくりの両方に長年従事。