ハンマー投げの技術向上努力

ハンマー投げの技術向上努力

2000年のオリンピックでハンマー投げは残念な結果に終わった。

大きな大会で室伏選手程の方でも実力が発揮できないということは大変なプレッシャーであることがわかる。まだ若い室伏選手には再度の優勝を是非お願いしたい次第である。

以下の話はそのようなハンマー投げの選手談である。

 

分析力が日本人の快挙をなしたことがよくわかる。この内容は新製品開発、技術開発の内容と比較すると多くの点が参考になるので、ここに紹介した。

ハンマー投げのM選手にお会いしたのは93年のことだった。背の高い、ガッシリした体格だった。

その姿には、何か優しさがあり、雑談の内にも、物の見方に相い通じる感があったことは今も記憶に新しい。

 

現場の改善賞の審査終了後、講演会に飛び込んでお話をお聞きしたが、大きな体を動かし、実演を交えながらハンマー投げの講演をなさっていたことは今も印象に残る内容である。

Mさんはハンマー投げで数々の記録を立てた方である。Mさんのお話は新製品開発に大変役立つ内容が多かった。

では、お話の内容をかいつまんで述べることにする。

 

「人間は常に重力と戦っている。戦っているという刺激が人間を思わぬ進歩へ導くように思います。

刺激と好奇心、これがスポーツを面白くしている内容だと思うのです。

そして、私の経験から見ると、人の体は改造できると考えます。それは重量上げをやっているのを見ればわかります。

 

最初は60kg程度の重量しか上げられない人が220kgと、約4倍もの重量を上げるからです。

もう一つ、幅跳びを見ても人の体の改造理論が成り立っていることがわかります。かつてソーモンという選手が8m90cmを飛びました。3年間記録は破られませんでした。

「もう記録は破られることはないだろう!」と言われていましたが、カール・ルイス選手(8m91cm)、そして、パウエル選手(8m95cm)がその記録を破りました。

 

この、記録を破るということも驚異ですが、さらに、着地の数値を計算すると、さらに驚異的なことがわかります。

なんと、220〜230kgの重力が足に掛かるという事実です。もし、この重力を普通の方の足が受ければ! 簡単に骨折します。

そうでなくても捻挫をすることは間違いありません。

 

100m10秒の壁もそうです。現在までに13名の方が破っています。ここでも驚異的な事実があります。

カール・ルイス選手は100mを44.5歩で走ります。日本人は大体50歩が必要です。

1秒に5歩も足を進めないと10秒の壁は破れません。実はこのスピードで足を動かすのが、人間の持つ反応神経の限界だそうです。

 

果して一般人にこれができるでしょうか? ここに、一流選手となるための反応神経の訓練が必要であり、一般人が考えも及ばないような訓練と技術開発があるわけです。

大体において、歴史のあるスポーツは記録を破ることが、極めて難しい条件があります。既に、過去に多くの取り組みがなされているからです。

私がやっていたハンマー投げもそうです。私の記録は75.96mでした。当時の世界記録は86mでした。ここに私の苦しみと努力の一端をお話したいと思います。

 

私の経験から言って、人は苦しい時にぶつかって、始めて、自分を引き出すことができる! と考えます。

これは、後でお話しする、ハンマー投げの長期のスランプより学んだ人生哲学のようなものです。

スランプの時に手を尽くした結果が、記録を破る話しにつながっているからです。では、私の体験談に入って
行くことにさせていただきます。

 

私は昭和20年生まれです。中国で生まれた引き上げ者の一人です。

中学の時、体が大きかったこともあり、相撲、柔道にあこがれていました。

しかし、沼津にはその練習場が近くになかったのでサッカーをやったり、バレー・ボールをやっていました。水泳もやりました。

 

要は、いろいろやったのですが、3年間は特に何をやったというわけではなかったわけです。

1964年、中学3年の時にオリンピックを見ました。TVが家庭にはいりだした頃です。

そのTVで見たホーガン投げは私の目には、全くといって良いほど刺激的でした。それは、B選手が、私には均整が取れた体であり、とっても恰好よく見えたからです。憧れの的になったわけです。

 

当時の私の体重は78kg程度、身長は180cmあったので、すぐに、砲丸投げが自分に合っている、と考えました。

当時、学校で私に相撲で勝つ者は全くいませんでした。石を川で投げ比べしても負かす者はいなかった状況でした。

そこで、砲玉投げを始めたわけです。先生を訪ね、「砲丸投げをやらして欲しい」と言ったら、やらせてくれました。

 

結果はまずまずでした。先生の勧めで中体連へ出場、当時13mを投げました。3段飛びにも出場しました。

12m少しで優勝でした。その後、どんどんと記録が伸び、競技が面白くなっていったわけです。

そんな時、N大のT先生が大学に来るよう勧誘してくれました。同じ時ですが、相撲で有名な時津風部屋からも相撲の勧誘がありました。

 

しかし、中学だけでは、学問を身に着けねば! ということで、私は陸上の方へ進むことにしました。

中学では砲丸投げが主体だったが、高校では投てきをやりました。投てきにはハンマー投げ、円盤投げ、砲丸投げ、やり投げがあるが、ハンマー投げの記録が特に伸びました。

ここでハンマー投げについて簡単に解説します。

 

ハンマー投げの歴史は、かつて、王室でやつていたスポーツが広がり、今日のような形になったそうです。

最初は斧を投げるような形から鉄の玉に木の柄をつけた形態を経て、今日のような形をした、玉にワイヤーのついたものに変化していったそうです。

玉を含めワイヤーと共に、全長121.5cm程度です。重さは16ポンド(7.26kg)です。

 

最初、私はハンマーの投げ方も知らない状態でした。したがって、ハンマーを持たないで、地道に投げ方を何回も練習しました。

基本技をイメージ・トレーニングしたわけです。地道に何回もやりました。

その後、ハンマーを持って練習をしたわけで、なんとか、2回転ができるようになった段階で試合に出たわけです。

 

46mを初めての試合で投げました。県で10位に入りました。その明くる日に3回転投げをやりました。

その日の内に2m記録をのばし、以降、毎日2mの距離をのばして行くような状態で、1週間で57m位までいきました。

当時のインター杯の記録が56mでしたので、自分でもその進歩に驚いた次第です。

 

翌年、インター杯に出場し、過去の記録を5m越え、練習では時に65mまで投げこともありました。

砲丸投げも優勝したので、私はオリンピック出場ができる! という夢を持ちました。

当時、日本のハンマー投げ選手にSさんという方がおられました。70mクラスを投げる方でした。

 

当時70m超を投げる選手は世界に9名でした。内、6名が中国でした。

オリンピックに出たいが、しかし、私が平均して投げることができる距離は当時55mでした。オリンピック出場は63mを安定して投げられなければならない状況でした。

当時の私には不可能に思われたが、しかし、努力しました。その結果、1968年にオリンピック出場の権利を得て、出場しました。

 

記録は64m、世界ランキング61位になりました。

この時期から、先にお話しした、私の人生の考え方を決めた、スランプに落ち入りました。

3〜4カ月記録が全く伸びないわけです。このため練習方法を切り換えました。丁度、冬のころでした。

 

スランプ克服のため、私はウエート・トレーニングを必死になって行いました。

3年生より4年生になり試合に出場しましたが、記録は62〜63mがせいぜいでした。このペースで記録は伸びないまま1年が過ぎ、秋になって来ました。

もう、アセルばかりです。と、いうのは、Sさんは67m投げているのに、私は61mだったからでした。

 

当時、大変なショックでした。何とか追いつきたい! と考え、練習量を増加させることにしました。

1日3回の練習に切り換えたわけです。早朝練習をスタートし、午前、午後と3回の練習を繰り返しました。

ウエイト・トレーニングのために用いるバーベルも段々と重くしていきました。すごく疲れたが、ジャンプ系とパワー系の練習をやりました。

 

ハンマー投げはどんなに練習しても投げては戻るという方式なので1時間に30本投げるのが限度です。

練習にならない、歩いているほうが多い。したがって、基本練習をやったわけです。

しかし、その時、Sさんが1日200本投げている、という話が入ってきたわけです。ここで、基礎練習より投げる練習に戻り、1日300本をベースに練習メニューを変更しました。

 

朝7時から夜7時までの練習が毎日続く結果となり、その結果、体をこわし、とうとう寝込むことになってしまいました。練習のやり過ぎです。

体が回復した頃、就職となり、T社に入社しました。午後は練習ができるので午後のみの練習となりました。

一生懸命にハンマー投げの練習をやったが63m程度でした。オリンピックの選考会の時、ようやく64mを出し、出場権は取ったが、もうこれが自分の限界かな? と思いました。

 

練習が嫌になり、毎夜酒を飲む日が続いたが、しかし、気持ちが空白でした。いろいろと私なりに悩み、考えた、その結論、やはりハンマーを投げなければ自分ではない! という結論になったわけです。

もし、ハンマー投げを止めたら? 生きていく自信まで捨てることになる。投げ続けて、本当に限界なのか? 確かめるまでやろう! と考えた思い出があります。

ここでハッとして、気づいたことがありました。今まで練習はしてきたが、果して記録が伸びない原因はなにか? について、客観的につかまずに練習している! という内容でした。

 

問題がわからないのに、いくら練習してもこれではダメだ! と気がついたわけです。

Sさんと比べると自分の方が体力がある。それなのに記録が下である。原因は何なのだろうか? 結果がある以上、原因があるはずである。

心、技、体力に分けて分析せねば! と考えました。Sさんに比べ、心だって負けていない。その理由はあれだけダメな気持ちを体験したのに、ハンマー投げをまたやろう! という気持ちに戻ることができた。

 

そうか! 技術面で何かSさんに劣るところがあるわけか? 要は、持てる力と精神力を引き出す技術面に欠陥がある! ということになる。

それなら、ということですが、多分今なら、その分析にビデオを使ったと思います。

しかし、当時は8mmしか無いので、まず、自分の投げ方を8mmに撮り、分析しました。Sさんの記録フィルムや同じハンマー投げをする、Iさんの記録フィルムも手に入れ比べてみました。

 

何回も何回も見たわけです。ヒザの曲げ方は? 目のつけどころは? ……と、詳細に分析して見ていくうちに、対策のためのアイデアが泉のように沸いてきました。

この解析で判ったことですが、ただ闇雲に練習してもダメである! という結論です。技術を高めるには、その前に、物の見方を高めることと、意識を高めなければダメである、という考え方をつくりました。

このような点に気がつくと、練習上の問題点が見えてきました。精神的な高まりも出てきました。練習する度に記録は伸び、大変身が起こっていったわけです。

 

63mは64.51mとなり、記録が日々、問題が解決される度に伸びる状況となりました。

その直後、ストックホルムへ行く機会があり、この時67.18mを投げるようになっていました。

私はスランプ復帰の後、努力はするが、とてもIさん(日本人Sさん同様ライバル)には追いつかないだろう、と思っていました。しかし、Iさんのベスト記録はコンスタントに破る実力が付いていたわけです。

 

この時Sさんは69mを投げていました。このような高まりを保ちつつ、私は努力しました。

結果は見事なものでした。’94年広島の大会で71.14mというアジアと日本の記録を同時に破ることができたからです。

39歳に近いころでした。ハンマー投げとしては年齢の限界を越えているといわれる時にです。

 

かつて、ベルリン・オリンピックで56mがハンマー投げの記録であり、しばらくは破られなかったことがあります。

しかし、その後、いろいろな研究が進み70mを超える選手が出てきました。多分、私と同じような思いと、努力がなされていった経緯があると予想されます。

ここにひとつ、選手が共通して話す内容は「人間は苦しい時こそ本当の能力を引き出すことができるチャンスを、神から与えられるようである」という体験談だった。

 

このお話しの中には、参考にすべき点が多々ある。その要素の中から、私なりに新製品開発上の対策と結び付け、要点を抽出し、以下のように整理した。

①新製品開発には不退転の精神(心)、実力(力)と問題解決技法(技)の三つが必要であり、どれが欠けてもバランスが悪い

したがって、他社(ライバル)と比較して分析しておく必要がある。

 

心 :最高トップの熱心な働きかけ+担当者の熱意+市場や顧客の求めに対応する使命感といったもの

力 :人、資金、時間、物、設備や活動環境の条件や体制がこれに当たる

技 :問題解決のための解析手段と評価技術や企業の蓄積情報がこの内容に当たる

 

②問題解決には事実を客観的に判断できるだけの分析思想と手段が必要である

ハンマー投げの技術力向上は8mmフィルムで自分の姿を見るという客観的な手段を実践するという発想を得てから局面が変化してきている。

この内容は経験に基づく勘でもなければ、闇雲に時間をかけて練習(企業でたとえるなら調査・研究・実験の繰り返し)に集中することではない。

 

新製品立ち上げの対策に(品質や歩留りの改善に)あたって、客観的でわかりやすい方法の活用の適用性と類似している。

製品開発の際に顧客の立場で製品の機能要求を見直す! という客観的評価内容と共通点がある。

 

③製品開発は人間性と、やる気が大切である

M選手がアジアと日本記録を破った努力の影には、多くの努力 と苦悩があった。

しかし、究極はやる気が新たな記録を生むという結果を生んでいることは間違えない。ここに大切な点は「自分にはハンマー投げしかない!」と思った究極の精神的な悟りである。

 

この内容は、企業で研究開発を担当する方や、プロジェクト・チームの方々が製品開発に成功した体験談に出てくる話と、全く相い通じる内容である。

要はシステムや手段の前に人が人生をかけた取り組みが重要である。

企業の開発成功者が時に行う、給与無視で研究に人生をかけた動機と、この内容は全く同じであると考える。


昭和45年から平成2年まで、日立金属㈱にて、全社CIM構築、各工場レイアウト新設・改善プロジェクトリーダー、新製品開発パテントMAP手法開発に従事。うち3年は米国AAP St-Mary社に赴任する。平成2年、一般社団法人日本能率協会専任講師、TP賞審査委員を担当を歴任する。(有)QCD革新研究所を開設して活動(2016年有限会社はクローズ、業務はそのままQCD革新研究所へ移行)。 http://www.qcd.jp/