機械加工の進化の歴史|元トヨタマンの目
第1段階……「切削」のみ機械が行ない、「刃物送り」は人が行なう
第2段階……「切削」と「刃物送り」を機械が行なう
機械が切削をしている間、人は何もしなくてもよくなった。
しかし「切削異常が発生した場合、すぐに機械を止めなければならない」とか「ワークの切削が終ったら加工をやめなければならない」とかのため人が監視していなければならない。
結局、人が楽になっただけで会社は何も儲からない。
それどころか従来の労務費は減らないし、新たに償却費が増加したので費用増となってしまう。
第3段階……ワークの切削終了時に「機械停止」の機能をリミットスイッチ等により追加した
これにより「1人1台」から解放されて、多台持ちが可能となった。
しかし異常発生が心配で、2台が精一杯のところだった。
第4段階……「異常の検知」を機械にさせるようにして、機械が異常を感知したら機械が自動的に止まるようにし、同時にあんどんが点灯して人を呼ぶようにした(自働化のスタート)
これにより異常発生の監視がまったく必要なくなったので、1人がより多くの機械を担当できるようになった。
第5段階……さらに「原位置復帰」を機械化した
第6段階……さらに「取外し」を機械化した。<エンジンのヘッドカバー、インマニ等の加工部位の少ない部品はこのラインにしている>
第7段階……さらに「取付け」「起動」を機械化した。これにより全自動ラインが完成した。<エンジンのブロック、クランクなど加工部位の多い部品をこのラインにしている>
これにより「機械のすべき事」と「人がすべき事(異常対応、定期的な品質チェック、刃具交換)」とが明確に区分されることとなった。
第4段階以降からトヨタ生産方式の範疇に入ってくる。
未だに第1段階、第2段階のままで、1人1台持ちのままの機械工場がある。
豊田佐吉の発明した豊田式自動織機は、「糸が切れたら自動織機が自動的に止まる」ということで世界的特許を取得した。
ニンベンのついた自働化だ。
したがって第2次世界大戦以前に、紡織業界は1人の女工さんが多くの織機を担当していたのだ。
戦後、トヨタは自動車の機械加工にこのことを応用していき、10年後の昭和30年頃には、3,500台の機械を700人で動かしていたそうだ。1人5台を受け持っているのだ。
トヨタのエンジンの機械工場はもちろん第7段階だが、そこを歩いていても、ほとんど人影を見ないぐらいに人数が少ない。
しかし今でも、1人1台のままで、必然的にロット生産で、生産活動を続けているところが非常に多くある。
先頭集団が第7段階までいって、どんどん日々効率的な生産活動を行なっているにの、まだ第1段階や第2段階のままで収益を上げて存続できていること自体が不思議に感ぜざるをえない。